
お台場といえば、修業時代に泣いたり笑ったりした~とても懐かしい場所です。
そのころは、朝9時から専門学校で学んだあと、午後は同級生と指圧やマッサージの練習や筋トレをしてから、お台場のホテルに午後4時入りしていました。今はそんなこと、できません。
お台場のホテル勤務は厳しい条件だったので、人が足りず、困っていました。
会社の部長は、阪神大ファンの冗談ばかりをいって、たぶん仕事ができないであろうと思われましたが、よく可愛がってくれました。
その部長から、「ホテルの社員食堂が美味しいから」と誘惑され、勧誘されてしまいました。
仕事が入るまで広い待機部屋で待機するのですが、仕事がないと自由時間になります。
巨大ホテルの裏側は独房みたいで、息苦しく、暇をもて遊ぶと、寂しくなったりしました。ほろ苦い場所でもあります。
仕事は深夜までありました。午前2時まで仕事を受け付けていたので、帰宅は3時~4時頃だったでしょうか。
新聞配達の人たちとすれ違って帰宅していました。帰り着くと速攻で寝て、身体を休ませることを覚えました。
そんな思い出が詰まったお台場からフェリーに乗ることになるなんて、修業時代は夢にも思いませんでした。
そこから新しい土地(北九州)に向けて出発したのも、意味があったのかも知れません。
また、たまたまですが、フェリー乗り場のランプウェイを造ったのが、父たちでした。
父は、40年間も船を造って過ごした、海の男です。
川崎のホテルに泊まりながら、お台場に通って設置完成させたそうです。
その父たち・稲益造船所が作ったランプウェイを通ってフェリーに乗船しました。
東京での仕事はお台場から始まり、東京を去るときはお台場で終わるようになっていたようです。
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